雨と猫と珈琲と読書と

徒然なるままにパソコンに向かいて

大事なのは最終的なゴールがぶれないことかなと思う

結論からいうと障害受容しようがしまいが、障害と思おうが個性と思おうが、治すと思おうが治らないと思おうが他人に押し付けない限り、どちらのスタンスでも良いと思う。最終的なゴールがぶれなければ。

受容のプロセスは一般的に5つあるとしている。

 

①怒り➁否認③取引➃抑うつ⑤受容

 

皆が皆⑤の受容に行くわけでもなく、①の段階で止まってしまう人、➁の段階で止まっている人➃のの段階…ry

一生障害受容が出来ない方もいるし、そもそも障害受容はしなければならないものか?という根本的な議論もある。

最終的なゴールってなんじゃらほい?という問いになるのだけれど、それは当事者が少しでも生きやすくなることであって、価値観のあり方、プロセスのあり方は大らかでいいんじゃないかなという気がしている。

例えば工夫で少し生きやすくなったとして、人によっては「対処法を身に着けたから」と表現するだろうし「成長したから」「治ったから」というだろう。表現はなんでも良いと思う。

ガン治療も多分そうだと予想するのだけれど、似非民間医療を他人が押し付けたら駄目だけれど、本人が信じていてかつ健康に害意がないものだったら、寧ろその部分は尊重し寄り添った方が、ご本人の気力や前向きの支柱になるのかなとも思う。

医学モデル的には治らないは正しいのだけど、医学的に正しいことが全てではないし科学と感情は切り離して考えた方が良い時もあると思う。

 

支援者も環境因子の一部であるということ

福祉の勉強をして、実際にいくつか関わらせていただいて違和感を感じたことを記録しておこうと思う。

最近の障害に対する考え方、障害モデルは個人因子だけでみるのではなく環境因子と個人因子の両方でみる、ことがスタンダートである。

一昔前は、個人を訓練し鍛えることで一般人に近づける、という手法であったが、今は環境を調整していく、合理的配慮をしていくことが主流になっていると思う。

福祉の方の大体の方は、こぞって多様性が大事だ、障害を作っているのは社会だ、と言う。

私は思うのだ、社会って何だろう?社会を作っているのは何だろう?と。人それぞれの解があると思うのだけど、社会を作っているのは人の意識で、人の意識の集合体が社会であろうと。

人一人一人の意識が社会を構成しているのだとしたら、我々支援者の意識のあり方も社会を構成する一部であると言えると思うのだ。社会が障害を作っている一面があるとしたら、我々支援者も柔軟にしなやかにその都度、自分の価値観や意識のあり方を修正していく必要があるのだと思う。我々の意識もまた障害を作っている側面があるのだから。

であるにも関わらず、一部の福祉職の方が障害は社会が作っている、と主張するとき、その社会は企業であったり、行政であったりすることが多い。社会を仮想敵にしてしまっている時があるけれど、社会に変われというのならその前に我々がまず柔軟に思考し行動していくしかないのだと思う。

利用者の方に、認知を変えるよう訴える方がいるけれど、人に変われとせまるのならまず自分から変わることが筋であろうと思う。

 

なんだろうな、勿論全員ではないし、一部の方ではあるんだけれど、障害を作っているのは社会である、として社会の仕組みの制度行政を仮想敵にして、自分は善意側の人間である、と思っている方に対して、言語化し辛い違和感を感じたので、アンチテーゼの一環としてこの文章を書いておく。

GLAY、TAKUROインタビューより

GLAYは大好きなバンドで、沢山の曲も聞いてきたしライブにも参加させてもらった。

特に好きな曲はBELOVEDで歌詞の

「やがて来る それぞれの交差点を迷いの中 立ち止まるけど それでも 人はまた歩き出す」この歌詞にどれだけ勇気づけられてきたのだろう。

(あと個人的にバンプオブチキンさんも好きです)

 

GLAYのリーダーのTAKUROさんがR25のインタビューに答えられていたので、後で自分が見返せるようにまとめておこうと思う。

 

TAKUROが優しく教えてくれた「自分を薄めずに、時代に合わせて自らを調理する方法」

r25.jp

「“全部自分の責任です”っていうリーダーを、俺は信用しない」TAKUROが語るリーダーの哲学

r25.jp

 

自分を責めない相手も責めない、相性の大切さ

私が美容師さんに引っ込み思案なんですよね、という風に声をかけたときのこと。

「何かお辛いことでもあったのですか?」

という風に聞いていただいた。辛いことがあったというよりは、私にとっては「それなので黙るときがあっても不機嫌とかいうわけでないですので、気になさないでくださいね」という意味合いで引っ込み思案という前置きをしている。

美容師さんのお嬢さんが、子供のころ友人関係で何かしらあったらしく、それ以来性格が引っ込み思案になってしまったそう。

そのご経験から何か辛いことがあってそうなってしまったのかな?と連想して下さったらしい。親である美容師さんに言わせると、それも経験大人になるために必要なこと、のようにお嬢さんに伝えたそう。

写真家の幡野広志さんはエッセイでこういわれる。

人間関係は全て相性だと。

電波みたいなもので、チャンネルというか受信との相性が良くないと相手に伝わらない、受け取ってもらえないことがある。

いじめであるとか、パワハラセクハラといったものでない、行き違い、すれ違い、価値観の相違でおこった人間関係のあれこれは、反省するところがあれば反省したあと、自分を責めすぎない、相手のことも、自分に知らない事情の可能性、自分が昔至らないところがあってそれが今回たまたま引き金になったかも、と相手を責めすぎない。そういったバランスが大事だと思う。

SWの有名な考え方にバイステックの7原則というものがあるのだけれど、そのうちの1つに非審判的態度というものがある。あえてジャッジしないことの大切さを諭したものである。

 そのあと、何故か話の流れが気遣いの話になった。

20年美容師をしていると沢山の同業者、アシスタントしてくれる美容師の卵、その他の人と関わってくると、明らかに人によって気遣いに差があるのだという。

私の昔の会社の先輩も、昔管理職で入れ替わりで3桁の後輩を見てきたけれど、似たようなことを言っていた。そこは年齢はあまり関係ないと。美容師さんも会社の先輩も、気遣いの差は、育ちの差だ、と同じことを言っていたことが興味深い。

能力の差ではないのだ。また性格の良し悪しとも違うのだ。

性格が良くても気遣いが出来ない方もおられるし、一見自己中心的に見えてここぞというところの心配りが出来る方もいる。

育ちというキーワードで思い出すのは、よしもとばばなさんのエッセイ「人生って?」という作品だ。読者からの人生相談に答えるという形式で、最初のQ1が「ほんとうの優しさってなんだと思いますか?」

よしもとばななさんはこう解答する

例えば私が大きなお金を落としたとき、それを探すのを必死で手伝ってくれるが優しさなのか、しょげている私の手を握りよしよししてくれるが優しさなのか、とにかく警察につきそってくれるのが優しさなのか、お金を貸してくれるのが優しさなのか…。

私は、そのひとにとっての優しさの定義を決定するのは「育ち」なのだと思います。略まさに人ぞれです。たとえ愛し合う人たち同士でも、家族のあいだでも、そういう理由で定義が食い違うからこそ色々な問題が起こるのでしょう」

よしもとさんの解答は、幡野広志さんの全ての人間関係は相性である、という言葉の本質の解像度をあげて説明をした内容なのだと思う。

気遣い≒本当の優しさだとしたときに、それには育ち(家族の形態や経済度ではなく、何がしてもらえて嬉しくて、何がしてもらえなくて悲しかったとかそういったもの)が色濃く影響していて、その育ちは能力であるとか、性格であるとかとはまたちょっと違ってくるのだと思う。

さる芸能人の方がtweetしていて共感を集めた「性格が良くても自分にとっては悪い人がいる。性格が悪くても自分にとってはよい人の人もいる」に繋がるのだろう、と思う。

例え他者が自分の望む優しさでなくても、それも一つの優しさ気遣いの形なんだと受け取れるようになりたいと思う。 

美容院にて 継続するからこそみえてくるもの

美容院に髪を切りにいった。

美容師さんは20年以上のキャリアを持つベテランの方だったのだけど、会話のやり取りがいくつか印象深かったので記録しておく。

  • 技術というのはやりたいと思った時にチャレンジしないと身に着け辛いだそう。
  • 20代には20代のセンス、30代には30代のセンス…といったその年代にしかないセンスがあるから一概にはベとテランが良いとも限らない。
  • 20年やって、やっと本当に仕事を楽しめてきた。
  • 15年目に人間関係を調節出来るようになってきた。
  • 10年目はやはり節目。最初の3年目は自分のセンスをお客さんが分かってくれないと他者のせいにしていたが、5年目辺りから自分の技術のなさを痛感するようになった.。
前に別の美容院だった時は男性経営者の美容師の方だったけど、自分はメイクの知識はあって後輩に教えることは出来るけど、自分がお客さんにすることはできない、料理も作れない、といっていた。美容師さんというと器用なイメージがあるので、両方とも得意そうなイメージなのだけど、髪を切ることと何かが違うのだろう。
 
手に職があって長年一筋で従事されている方の話は面白い。
私の好きな作家の方も言っていたけれど、1つの仕事しかしたことのない人と、豊富な転職経験がある人だと、世間的には後者の方の方が人生経験が豊富だとみなされやすいだろう。沢山の世界を知っていることは素敵なことだ。
その一方で、同じ仕事を何十年もしたことでしか見えない景色というものも確かにあって、その景色を知っているという視点に立てば、前者の方の方が人生経験が豊富、ともいえるのかも知れない。
 
美容師以外の何人かの人に話を聞いても、自分の経験からも、3年、5年、10年は節目なのだと思う。美容師さんは5年目で自分の技術不足に目が行くようになったと仰っていたけれど、どの仕事であれ、自分の至らなさ未熟さに向き合うには、まず仕事に慣れて落ち着き仕事を全体的に俯瞰出来るようになってからだ。

専門家ごとのファーストプライオリティ

福祉の専門学校で言われたことで印象的だったことがいくつかあるので記録に残しておこうと思う。

 

「誰かをサポートするというのは一人の力で成し遂げられるものではありません。沢山の職種、沢山の人、沢山の専門家そういった力が必要です。皆サポートしたいという本質は同じですが、例えば医療職の方でしたらファーストプライオリティは人命救助です。そして貴方方SWすべきことはライフ、人生の充実度を優先して下さい。どちらの価値観が上とか下とかありません。専門が違うということはファーストプライオリティが違うということです。それは素敵なことです。

だからお互いはお互いを尊重せねばなりません」

 

「SWはジュネラリストの職種ですが、それでも得意不得意が出てくるかと思います。万人に向けてサポート力がある人というのはまずいません。

サポートを必要としている人は大きく4つのグループに分けることが出来ます。意志も能力もある人のグループ、意志はあるけれど能力がない人のグループ、意志はないけれど能力はある人のグループ、意志も能力も厳しい人のグループ。

自分がどのグループを一番に援助したいかよく考えて選択して下さい」

 

どちらの言葉の伝えたいことの本質に、良い意味での自分の出来ることの範囲の自己覚知の大切さがあるのだと思う。

自分の出来ることは狭い範囲なのだ、これは決して悲しいことや能力不足ということではなく、他者への敬意、多職種と協力することの大切さ、キャパオーバーしないこと、自分の専門性を伸ばす、そういったことに繋がるのだと思う。

似非正義教という宗教がまかり通っているように思う

最初に言明させていただくと、自分は宗教というものに敬意を抱いている。最後の最後まで弱ってしまった人を救うのは最終的には医療や福祉や法律ではなく、宗教であるように思う。

 

さて似非正義教である。

コロナは良くも悪くも私たちの日常を変えてしまった。変えざるを得ない状況に追い込まれた。

人は不安になってしまったとき、未来が見通せないとき、強いもの、不動なもの、繋がりのある一体感のあるもの、に縋りやすい。

あるコメンテーターの方が言っていた、

「今、強いリーダーシップの知事たちがとても人気ある。そのこと自体は僕は否定しないけれど、民衆が強い不安の中、強いリーダーシップを求めたことがファシズムにつながったことは忘れてはならない」

本当にそうなのだ。ヒトラーは民衆の選挙で選ばれたのだ。そのことを忘れてはならないのだと思う。

人はそんなに強い生き物ではないのだと思う。

ホリエモンさんが、緊急要請などいらなかった、政府に頼らず自分の頭で考えて行動すればよい、みたいなことを仰っていたように記憶しているのだけれど、それは正論である、ただし強者の正論だ。

人は平時のときならいざ知らず(平時のときでさえも)自分で考えて行動することが難しい人の方が圧倒的に多いのだ。誤解を恐れずにいうならば、世の中の人が自分で考えて行動出来る人間ばかりならそもそもマネージャーという役職は不要であろうと思う。世の中の企業のほとんどがマネージャー及びそれに類する役職が必要とされている現状を鑑みれば、いかに難しいかということだと思う。

 

さて話を戻して似非宗教である。

世の中には色々な価値観がある。万人が認める価値観はほぼなく、どんな意見であっても批判は免れないだろう。そんな中で万人が認めやすい価値観で批判を受けづらい、賛同を受けやすい、一体感を得やすいものに、コロナで顕著になった似非正義教がある。

似非と形容しているのは、他者を故意に傷つけた点で、公共の福祉≒他者の人権を侵害した地点で、正義でもなんでもないからである。

自分は一応法律家を志している人間なので、思うことがあるのなら話し合い(場合によっては法律)で解決するべきである、というポジションである。伊藤真弁護士のいうように、事実と論理と説得力をもって話し合いをすることが法律の本質であると思うし、日本は法治国家なのだから。

 

ただ現状は話し合いは難しく、悲しいことではあるけれど罰則を強化することで抑止力とするしかないのかなと思う。

何より「似非正義はおかしい」と声を上げていくことであると思う。