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徒然なるままにパソコンに向かいて

コミュニケーションを取れる辛さ

ぱっと見で分からないけれど心理的困難を抱えている方がいる。

大枠でいうところのコミュニケーションによる困難さなのだが、人に合わせて雑談したり仕事の指示は通るので、他者が気付き辛く、対人援助職の人もアセスメント力がある人でないと、中々看過出来ないのではという気がしている。

辛い、であるとか、苦しい、であるとか自分の感情を言語化出来ず、表出できないというのは歪で、適切なタイミングで怒れない、であるとか、傷ついていても黙っていることしかできず、時間がたってからしか泣けないのは切ないことであると思う。

一部の発達障碍児の特性として癇癪があるけれど、癇癪を起す理由はきっと様々なのだろうけれど、恐らくまだ子供で自身の感情を言語化できず、次善の策としての癇癪化があるのだろう、と想像する。

癇癪そのものは褒められた行為ではないけれど、その一方で癇癪を起こせる、ということは自分の感情を自覚でき、(適切な方法でないとしても)表出できるということである。

しかしその一方で癇癪を起せない子供は、大人は、その辛さを困難さをどうしたら良いのでしょうか?

コミュニケーションがとり辛い場合、ご本人はとてもとても辛いと思うのだけれど、周囲にコミュニケーションが困難なこと、それに付随して感情表現が不得意であることを周知できる側面があるかと思う。

最初の感情の自覚・表出のみ困難でコミュニケーションそのものははた目には友好な場合、例えば一見すると友人の仲良くしているように見え(但し一方的に相手に合わせているだけ)

仕事をこなすことができ(仕事そのものは職種にもよるけれど事務処理能力、情報処理能力があれば可能である。但し職場で理不尽な目にあってもその場では黙って受け入れるしかできない)

自分の考えを述べることができ(思考をロジカルに組み立てる能力と感情を自覚表出できる能力は別個であると考える、一見頭が良さそう風が増々、心理的困難があることを周囲に告げても軽く流されてしまう、福祉の職の人にでさえも)

上記の状態だと、大まかな意味でのコミュニケーションは出来ているように見なされる。寧ろ場合によっては社交的にすら見られてしまう。

周囲が困っていないと、仕事ができてしまうと、困難はないことにされてしまう。

友人や仕事や学校生活に一見問題ないように見えて、引きこもってしまったり不登校になってしまった方の中にも、同じような症状を抱えておられる方もおられるかもしれないし、今現在学校に通えていても、仕事をこなせていても同じような方がおられるかもしれない。

先天的な障害だったり、中途障害であったり例えば家庭環境などで後天的に似たような症状を抱えておられる方もいるかもしれない。

四肢麻痺の障害のある知り合いが言っていたことがある。

「前に、お前は障害が目に見えるからいいよな、みたいなことを言われたことがあるけれど、なまじ誰の目にも分かりやすい身体障害の部分があるから、その部分に隠れてそれ以外の障害の部分が認知・理解してもらいづらい」と。

表出されている障害は辛い、表出されない障害も辛い。障害と診断されなくても辛い。

生き辛さは、表出されているかいないか、診断があるかないかだけで判断出来るものではないと思う。そのことを忘れずにいたいと思う。