雨と猫と珈琲と読書と

徒然なるままにパソコンに向かいて

他人の痛みがわかることは本当に良いことなのだろうか

吉野弘さんという詩人の夕焼けという詩がある

いつものことだが 電車は満員だった
そして いつものことだが 若者と娘が腰をおろし としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが坐った 礼もいわずにとしよりは次の液で降りた。
娘は坐った。 別のとしよりが娘の前に 横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。 しかし 又立って 席を そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘は坐った。 二度あることは と言う通り 別のとしよりが娘の前に
押し出された。 可哀相に 娘はうつむいて そして今度は席を立たなかった。
次の駅も 次の駅も 下唇をキュッと噛んで 身体をこわばらせて--。
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて 娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持主は いつでもどこでも われにもあらず受難者となる。
何故って やさしい心の持主は 他人のつらさを自分のつらさのように感じるから。
やさしい心に責められながら 娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで つらい気持で
美しい夕焼けも見ないで。

 100人いれば100通りの鑑賞の仕方があると思う。

最近HSPという言葉をちらほら見かける。HSPというのは精神医学的には診断として存在していないらしいので、自分が知っている範囲では、認めない派と、病気・障害としては診断はしないけれど、そういった状態の心理状態はあるよね容認派に分かれるみたいである。

人の痛みがわかることは本当に良いことなんだろうか、の一つの解として、東大卒ニューヨーク弁護士の山口真由さんの経験談のオフィシャルブログの一記事、「やさしいひとになること」から引用してみたい。

www.mayuyamaguchi.com

 詳しいエピソードは、上記の記事を読んでいただくとして、山口真由さんはいう

そして、私はふと気づいたのである。

私は、いままでの人生で、こうやって人を押しのけたことが一度もなかっただろうかと。いや、たぶんたくさんあるよ。意識して意地悪したわけではなくても(意地悪したこともあったかもしれないけど…)、人を押しのける側は、常に大した意識はしていないのである。

人を傷つけたことに気づいてないし、押しのけたことに気づいていないし、ぶつかったことにすら無自覚なのである。

そして、私は思ったのである。

優しい人になろうと。

 自分の傷には異常なくらいの敏感な人も、他人の傷には鈍感なことが、えてして多い。

 他人の傷に対するセンシティビティというのが、「優しさ」なのだろうと、私は思うに至った。

 山口真由さんは人の痛みのわかる人間でありたいと仰っている。

もう一つの考え方として、rockin'on JAPAN  2008 vol.327号でバンプ・オブ・チキンのボーカリストで作詞作曲も手掛ける藤原基央さんは、カルマという曲の歌詞をこう語る

絶対もう、生きていると何度も人と肩をぶつけてしまう瞬間があるんですけど。で、痛いんですよ、それは。ほんとに痛いんですよ。こっちは痛くないけど、向こうがすごく痛かったり、その逆もあったりで。人畜無害になれたらどんだけラクかと思うんですけど。まあきっとそれはそれでつまらないなと思うんですけど(笑)そういう考え方があって、一個。そこから生まれた曲ですね。

藤原さんの言葉を私流の解釈をさせてもらうと、生きているとどうしても人を傷つけてしまったり、傷つけられてしまったりする。その事実をそのままの形で受け止めていく、ということだと思う。

 山口真由さんの人の痛みに気付けるようになりたいという考え方、藤原基央さんの自分も他者も人畜無害になりたくてもなれない事実を受け止めていくという考え方、どちらも素敵な考え方だと思う。