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多様性とコミュニケーションコストのバランス

最近コミュニケーションコストについて考えている。

 結論としては、コミュニケーションコストを互いに平等に負担することはまず厳しいので、「平等に負担仕合おうね」というよりは、コストそのものを減らす方向に調整していくことがbetterではないか、という内容である。

 

ネットで一定の周期でIQが20違うと会話がかみ合わないという話がループする。

IQ20云々の件の話は俗説ではあるが、何度も登場するということは、コミュニケーションコストについて思うことがある方が一定割合おられるのだろうと推測する。

上記の話はIQの部分に目が行きがちだけれど、この手の話の趣旨はコミュニケーションコストが一方に偏っていて、しかも高負担しているのはマイノリティ側であることが多いこと、(このケースの場合は高IQ)それはフェアではないのではないか?ということだと思う。

高IQ云々はマイノリティ側の具体例の一つであって、コミュニケーションコストの課題自体は他にも例えば健常者と障碍者、自国民と留学生、経営者と従業員…等々日常的に生じている。

 

多様性、という言葉がある。

世間的には素晴らしいもの、推進すべきものと認識されているように散見される。大勢の方が多様性は大事であると口にする。

私個人としては疑問視せざるをえない。

何故なら多様性を認めることと、コミュニケーションコストの負担はトレードオフの関係だと思うからだ。

 

例えば職場に全く日本語が理解出来ない人物が配属されたとしたらどうだろう?大抵の方が現実問題として困ってしまうだろうと思う。

例えば、見た目にはどこに障害があるかわからない人物が配属されてきたとしたら?

例えば、職場内のうち一人だけ職種が違う人物がいて、その人物が一人だけ他の従業員よりも10倍のお給料をもらっているとしたら?

 

あなたや私は、一人の職場の同僚とコミュニケーションを取るために、その人物の母国語を勉強するだろうか?

あなたや私は、その障害を理解するために情報収集したり、自主的に自分で探してセミナーに参加したりするだろうか?

あなたや私は、その職種の実際の仕事内容を知らない状態であるにも関わらず、パッと見て楽そうに見えた時に不満を抱かないと言い切れるだろうか?

その職種の仕事内容を調べると、そこまでのお給料の仕事でないと思われても、それはあくまでも自分の価値観であって、自分には見えない責任や仕事の苦労があるに違いないと思えるだろうか?

 

上記のことを自ら進んで出来る方は出来た方なのだと思う。

だけれども大抵の人はそこまではしたくない、もしくは出来ないのではないだろうか。

 

では次のケースの場合はどうだろう?

くだんの人物が美人ORハンサムであったり、気遣いが素晴らしく好人物であったり、くだんの人物が英語は理解出来ることが判明し、同僚に帰国子女で英語がペラペラな人物がいたとしたら?

障害がある方が自分の障害と必要とする配慮を伝達出来たとしたら?もしくは福祉職の方が間に入り調整したとしたら?もしくは社内で理解するための研修を用意してくれたとしたら?

例えば病院での医師と他の医療職の関係のように、その職種の仕事内容が誰が見ても責任が一番重く、その職種につくためには並々ならぬ努力が必要なことが周知及び可視化されたとしたら?

 

マジョリティ側はマイノリティ側にもっと配慮せよ、というのは正論であるが現実的ではないのだと思う。高IQの人がもし何らかのコミュケーションコストを抱えていて、それを一般側も負担せよ、という主張は現代の損得に敏感で、かつ余裕のない時代では難しいのだと思う。

個人の能力の課題にするよりはシステムの改善、それは例えば、通訳者になってくれる人を探すことであったり、必要な自己発信をすることであったり、何らかのイベントや行動を起こすことで周知OR可視化していくことが正解かどうかはわからないけれども有効ではあるまいか。