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自分を責めない相手も責めない、相性の大切さ

私が美容師さんに引っ込み思案なんですよね、という風に声をかけたときのこと。

「何かお辛いことでもあったのですか?」

という風に聞いていただいた。辛いことがあったというよりは、私にとっては「それなので黙るときがあっても不機嫌とかいうわけでないですので、気になさないでくださいね」という意味合いで引っ込み思案という前置きをしている。

美容師さんのお嬢さんが、子供のころ友人関係で何かしらあったらしく、それ以来性格が引っ込み思案になってしまったそう。

そのご経験から何か辛いことがあってそうなってしまったのかな?と連想して下さったらしい。親である美容師さんに言わせると、それも経験大人になるために必要なこと、のようにお嬢さんに伝えたそう。

写真家の幡野広志さんはエッセイでこういわれる。

人間関係は全て相性だと。

電波みたいなもので、チャンネルというか受信との相性が良くないと相手に伝わらない、受け取ってもらえないことがある。

いじめであるとか、パワハラセクハラといったものでない、行き違い、すれ違い、価値観の相違でおこった人間関係のあれこれは、反省するところがあれば反省したあと、自分を責めすぎない、相手のことも、自分に知らない事情の可能性、自分が昔至らないところがあってそれが今回たまたま引き金になったかも、と相手を責めすぎない。そういったバランスが大事だと思う。

SWの有名な考え方にバイステックの7原則というものがあるのだけれど、そのうちの1つに非審判的態度というものがある。あえてジャッジしないことの大切さを諭したものである。

 そのあと、何故か話の流れが気遣いの話になった。

20年美容師をしていると沢山の同業者、アシスタントしてくれる美容師の卵、その他の人と関わってくると、明らかに人によって気遣いに差があるのだという。

私の昔の会社の先輩も、昔管理職で入れ替わりで3桁の後輩を見てきたけれど、似たようなことを言っていた。そこは年齢はあまり関係ないと。美容師さんも会社の先輩も、気遣いの差は、育ちの差だ、と同じことを言っていたことが興味深い。

能力の差ではないのだ。また性格の良し悪しとも違うのだ。

性格が良くても気遣いが出来ない方もおられるし、一見自己中心的に見えてここぞというところの心配りが出来る方もいる。

育ちというキーワードで思い出すのは、よしもとばばなさんのエッセイ「人生って?」という作品だ。読者からの人生相談に答えるという形式で、最初のQ1が「ほんとうの優しさってなんだと思いますか?」

よしもとばななさんはこう解答する

例えば私が大きなお金を落としたとき、それを探すのを必死で手伝ってくれるが優しさなのか、しょげている私の手を握りよしよししてくれるが優しさなのか、とにかく警察につきそってくれるのが優しさなのか、お金を貸してくれるのが優しさなのか…。

私は、そのひとにとっての優しさの定義を決定するのは「育ち」なのだと思います。略まさに人ぞれです。たとえ愛し合う人たち同士でも、家族のあいだでも、そういう理由で定義が食い違うからこそ色々な問題が起こるのでしょう」

よしもとさんの解答は、幡野広志さんの全ての人間関係は相性である、という言葉の本質の解像度をあげて説明をした内容なのだと思う。

気遣い≒本当の優しさだとしたときに、それには育ち(家族の形態や経済度ではなく、何がしてもらえて嬉しくて、何がしてもらえなくて悲しかったとかそういったもの)が色濃く影響していて、その育ちは能力であるとか、性格であるとかとはまたちょっと違ってくるのだと思う。

さる芸能人の方がtweetしていて共感を集めた「性格が良くても自分にとっては悪い人がいる。性格が悪くても自分にとってはよい人の人もいる」に繋がるのだろう、と思う。

例え他者が自分の望む優しさでなくても、それも一つの優しさ気遣いの形なんだと受け取れるようになりたいと思う。