雨と猫と珈琲と読書と

徒然なるままにパソコンに向かいて

議論は鋭い意見しか認めないとしたら、何かが違うと思う

表題の通りである。何故か議論は鋭い意見が言える頭の良い人しかしてはいけない、と思い込んでいる方を見かける。

議論に必要なのは頭の良さよりも、相手の意見を尊重しようという姿勢であると思うし、確かに意見そのものには視点の高低差はあるのだけれど、どんな意見であれ公共の福祉に反しなければ選挙の投票のように、一人一票が同じ重さを持つことと同義にどの意見も尊重されるべきものだと思う。

前提として、意見というものは万人が持っていて、万人が表明して良いものだ。

前に『ケーキの切れない非行少年たち』という本が話題になって、境界知能という概念にもフィーチャーされた。

そもそも常に高い視座を持っていられる人間など全体の2割にも満たないのではないだろうか。社会を構成している人数が多いのは平均的な視点を持った人たちだ。日本は民主主義を採用しているのだから、まずはそういった属性の方たちの意見が大事になっていくのだと思う。

そしてそれは、少数派の意見を排除することではない。

まずは大枠の形があって、ベースがある上で少数派の意見を大事にしていくというプロセスが定着に一番スムーズにいくと思うからだ。

少数派の意見が乱立していることは、戦国時代の群雄割拠状態にも似ていると思うのだ。

ありがたいことに、たまに黒蜜糖さんは視点が鋭いですね、視点が高いですねと言っていただくことがあるけれど、その言葉に居心地の悪さを覚えるのは、

鋭い意見≒少数派の意見≒メインストームではない意見

という認識があるためだ。だから逆説的に尊重されてはいけない、というような。

鋭い意見というのは2番手であるべきである、みたいな。

私は愚行権という権利のあり方を尊重しているのと、正しいことだけを選択し続けるのは、試行錯誤の機会を奪うことで巡りに巡って、将来のどこかで何か大切なものを置き去りにしてしまう気もする。

まとまりのない文章だけれど。