雨と猫と珈琲と読書と

徒然なるままにパソコンに向かいて

大事なのは最終的なゴールがぶれないことかなと思う

結論からいうと障害受容しようがしまいが、障害と思おうが個性と思おうが、治すと思おうが治らないと思おうが他人に押し付けない限り、どちらのスタンスでも良いと思う。最終的なゴールがぶれなければ。

受容のプロセスは一般的に5つあるとしている。

 

①怒り➁否認③取引➃抑うつ⑤受容

 

皆が皆⑤の受容に行くわけでもなく、①の段階で止まってしまう人、➁の段階で止まっている人➃のの段階…ry

一生障害受容が出来ない方もいるし、そもそも障害受容はしなければならないものか?という根本的な議論もある。

最終的なゴールってなんじゃらほい?という問いになるのだけれど、それは当事者が少しでも生きやすくなることであって、価値観のあり方、プロセスのあり方は大らかでいいんじゃないかなという気がしている。

例えば工夫で少し生きやすくなったとして、人によっては「対処法を身に着けたから」と表現するだろうし「成長したから」「治ったから」というだろう。表現はなんでも良いと思う。

ガン治療も多分そうだと予想するのだけれど、似非民間医療を他人が押し付けたら駄目だけれど、本人が信じていてかつ健康に害意がないものだったら、寧ろその部分は尊重し寄り添った方が、ご本人の気力や前向きの支柱になるのかなとも思う。

医学モデル的には治らないは正しいのだけど、医学的に正しいことが全てではないし科学と感情は切り離して考えた方が良い時もあると思う。