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言葉の選択について思うこと

2018年に生活保護法が改正されたのだが、当事者の方ご家族を除いて、福祉・医療系、法律系の人以外には馴染みがないだろうと思う。

今回のテーマは生活保護法でなく、言葉の選択について、である。

生活保護法の改正について人権の面から、日本弁護士連合会から生活保護法改正要綱案が厚生労働省に提出された。そのPDFが以下である

https://www.nichibenren.or.jp/library/ja/opinion/report/data/2019/opinion_190214_2.pdf

5つの提言があるが、そのうちの1つとして権利性の明確化をあげている。そして明確化するために、名称を変えよ、ということが趣旨の一部である。 

1 権利性の明確化

1-1 法律の名称変更  現行 生活保護法  → 生活保障法(健康で文化的な最低限度の生活の保障に関する法律)

1-2 用語の置き換え 現 行  

被保護者 →利用者   要保護者 →要保障者

保護→ 生活保障給付  保護金品→ 給付金品

扶助→ 給付      生業扶助 →自立支援給付
 
【趣旨・解説】  生活保護制度は,憲法25条の生存権保障を具体化したものであるにもかかわら ず, 「保護」という用語が,利用者にはスティグマ(世間から押し付けられた恥や負 い目の烙印)を与え,制度を運用する公務員には「保護を与えてやっている」との誤った意識を生んでいる。 そこで,法改正によって,法の名称を「生活保障法」と改めるとともに1「被保 護者」を「利用者」と言い替えるなど用語を改め,生活保護は恩恵として与えられ るものではなく,健康で文化的な低限度の生活を保障する憲法25条を具体化した権利であることを明確にする 

 

障害者を障碍者としたり、障がい者と表記するべきだという議論がある。

この議論の難しいポイントは、

 

障碍者として扱って欲しい障害者の方と障害者として扱って欲しくない障碍者の方の二重構造があるということ

・現実問題として障害者という言葉にはスティグマがある

 

この2点であるかと思う。言葉を変えても本質は変わらないから意味がない、という論調があるが、人の意識は言葉によって規定される一面がある、という前提がある以上、その発言者自身は全く変わらないとしても、世間や他人が変わらないかは別の論点である。当事者や当事者向けにイベントをされている方が、同じイベントであっても障害者と表記するか障がい者と表記するかによって集客人数がだいぶ違うという話も聞く。

昔見たテレビ番組で聾唖学校を取材したものをみた。その学校は日本で唯一、手話を第一言語として使用しているそうだ。テレビによると、第一言語がが手話でなく口語法のところがほとんどだと説明されていた。

その生徒さんの一人がインタビューを受けていた。リズミカルな手話と険しい表情で「僕は耳が聞こえないだけだ。それなのに何故障害者扱いされなければならないかわからない」

と訴えていた。彼にとっては恐らく耳が聞こえないというのは、音痴であるとか、料理が不得意であるとか、絵が下手であるとかと並列なのだ、と思う。

 

その一方で、精神障害であるとか難病の方ははた目にはわからないことが多く、それ故に、甘えではあるとか、努力が足りないのだ、という世間の無理解に苦しんでいる方も多い。ある精神科医の方が障害手帳はパスポートだ、と表現されていたけれど、素敵な表現だと思う。

ただ現状として、障害というカテゴリにくくられないと、世間の理解を得られなかったり、行政の福祉にアクセス出来なかったりという「保護」を受けづらいという現状がある。理想論をいえば個別性、多様性を重視していくことなのだけれど、使える予算、マンパワーに限りがある以上、閾値、カテゴリの類型化をせざるを得ない。

本来なら、障碍者という言葉自体が古くなってきて、現代にそぐわなくなってきたのだと思う。

次善の策としてふり幅を容認していくことだと私は思うのだ。

Aさんは障害者という言葉を使いたい、Bさんは障碍者という言葉を使いたい、Cさんはchallengeという言葉を使いたい。anythinng OKとすることだと思う。

マクロとミクロを切り離す視点が必要なのだ、と思う。

障害とすると見下されているようでいやだ、だから障碍者若しくは障がい者に仕して欲しい、という意見も、

障害者でないと程度が軽く扱われる、理解してもらえなくなる、という意見はどちらも正しくてどちらも間違っているのかもしれない。