雨と猫と珈琲と読書と

徒然なるままにパソコンに向かいて

分かりやすさの代償の先にあるもの

説明が上手い人というと、要約力や分かりやすさが求められることが多いように感じるが、果たして本当にそうだろうか?

 

確かに難しい事柄を噛み砕いて誰にでも分かりやすく説明出来るスキルというのは、スピード感が求められる場面で、聞き手が不特定多数である場面で必須であろうと思う。

ここでは要約力と呼称したい。

私は法律の勉強をしているが、読みなれないと判例は最初、非常に理解し辛い。そもそも法律用語は難解であったり、法的三段論法を理解していないと要点が掴み辛かったりする。故に読み手にある程度のレベルの素養を要求する。*1

また判例によっては文章がそれなりの長さである。

では裁判官は要約力がなく、故意に恣意的に分かり辛い説明をしているのだろうか。

勿論そんなはずはない。

判決というのは人の人生を左右するものであり、慎重に行わればならない。更には何故その判決に至ったか、説得力が必要とされるのであり、裁判の判決の思考の過程を詳らかにすることが求められる。

ここでは説明力と呼称したい。

 

つまりここから言えることは、要約し分かりやすく説明した方が良いケースと、丁寧に論理的に言葉を尽くして説明した方が良いケースがあるということである。他にもどちらに労力がよりかかるかといった違いがあり、要約力の方は聞き手は受動的、リアクティブでも問題ないが、説明力の方は聞き手に能動的、プロアクティヴであることが求められるのだと思う。つまりある程度自分から学習するという姿勢のようなもの。

 

世の中を観察していると、要約力ばかりが求められやすいような気がしてならない。多忙な現代においては仕方がないことかもしれないけれど。

料理本も大抵の本には時短であるとか、簡単という文字が踊るようになった。

林修先生も最近のベストセラー本は離乳食だと仰っていたこともある。

上記の件も分かりやすさを優先した結果であると思う。

 

さて長くなったがここからが本題である。

分かりやすさを優先した結果、代償に失われたものがあると思うのだ。

それは例えば、自ら学習する姿勢であったり、原理原則を追求しようとすることであったり、読解力であったり、思考力であったり、伝達力であったり。

分かりやすい説明しか受け付けないと、説明力を育むのは難しいのではないか。

ただ長い人生、要約力が必要とされる場面があれば、説明力が必要とされる場面もあるということは忘れずにいたい。

 

*1:知識不足の場合、情報の正確性は失われると思う。そしてそれは発信者の責任だけではないように思う。