雨と猫と珈琲と読書と

徒然なるままにパソコンに向かいて

どこまで意図を説明したら良いのか、どの辺りまで意図を意識すれば良いのか

人は何かをする時に、意識的にしろ、無意識的にしろ何かしらの意図があるのだと思う。

意図=何かをしようと考えている事柄。おもわく。もくろみ。である。

 

何気ないSNS上の呟きであっても、呟くことによって極微量の精神安定を獲得していようとしているかも知れないし、知らない誰かが聞いていることを願っていたかもしれないし、他の理由が本人が意識していないだけで存在していのたかもしれない。

更にはAだと認識していたら実はBだった、若しくはAとB両方の複合的な理由だった、実はCだったということはおいおいにして存在している。

 

プレゼンであるとか、記事を書くであるとか、明確な目的でもない限り、1つ1つ意識して実行することは脳に負担がかかるので、大抵の出来事は習慣化であるとか、過去の前例を無意識に踏襲して処理していることが多いように思う。

 

ネットでのコミュニケーションの難しさは、情報が良くも悪くも文字だけのことである。表情や身振り手振りといったノンバーバルコミュニケーションが規制されるので、リアル以上に読み手の読解力、行間や意図を読み取る力が求められてしまう。

 

読み手の能力に大分依存しているのである。

 

逆にリアルでのコミュニケーションに情報過多を感じる人の場合、ネットでのやり取りの方が心地良いのだと思う。更にはリアルでは即時性のレスポンスを求められるので、それが辛い方にとっても文字だけのコミュニケーションは歓迎することなのだろう。

その一方で基本的に、言い方をコントロールすることは自己依存なので可能だが、伝わり方は他者依存なのでコントロールすることは難しい。

 

ある外資の車産業の大企業の社長が、必ず会議前にかなりの時間を使って会議で使用予定である言葉の定義を確認し合うと聞いたことがある。伝わり方のズレのリスクを最小限に抑えるためであろうと推測される。

 

全国に施設の拠点を持つ各施設長が会社の創立記念日前に集まって、何回も何回も会議をする。会議内容は記念日に会社のビジョンをどのように伝えるか、施設長ごとに齟齬がでないよう綿密に打ち合わせをするそうだ。大勢いる従業員に、上司の差で伝わり方の差がでないように。

結論としては、伝わり方をコントロールしようとするとエライ時間と労力が掛かるのである。逆説的に、時間や労力をそこまで使わない気軽なSNSでのやり取りは、ある程度情報が誤読解されてしまうのは仕方がない面があり、そのことを織り込み積みで発信することがbetterなのだと思う。「ある程度はすれ違ってもしょうがない、仕方がない」というゆとり、遊びの部分が必要な気がする。

よく読み手の読解力ガーと批判する方も一定数おられるけれど、システム上の課題や、発信者側が丁寧な発信を心掛けたか?という視点を置き去りしてはならないのだと感じる。発信者側はどこまで意図を説明したら良いのか?という認識である。

逆に読み手側はどの辺りまで意図を意識すれば良いのかを頭の片隅に置いておくと、齟齬が少なるのかも、知れない。