雨と猫と珈琲と読書と

徒然なるままにパソコンに向かいて

教えてもらえることへの有難さと指摘もらえることへの難しさ

例えば教えるということに関しては、仕事や手続き、ITの説明等、制度化・知識を共有化出来るものであればある程度可能である。*1

指摘することに関しても、ある程度マニュアル化されているもの、例えば料理の仕方であるとか、電気製品の使用方法であるとか、正解がある程度全体に周知されていて合意を得ているものなら可能である。

ただし、相手が社会人である場合社会性や常識、人生の目標などのライフワーク系だと、ある程度のレベルまでは教えたり指摘することは可能だが、それ以上は困難であるように思う。

そのことについての差異を言語化してみようと思う。

 

教えてもらえたり指摘してもらえるものというのは、一般化出来る事柄であり個別性をある程度捨て去っても問題のないという条件が伴う。

逆を言えば、個別性が必須であるものは教えたり指摘することが難しい。

更には正解がない、又は正解が複数ある、正解が環境や属性によって変わるという前提にたつものは抽象化せざるを得ない。

本人の意思決定が不文律だからである。*2

 

教える場合も指摘する場合も、基本的には教わる側、指摘される側より知識があることが前提である。知識があるということはその知識を獲得するために、金銭的投資、時間的投資(実務経験含む)、労力的投資の何れか単数ないし複数の投資をしてきたことを意味する。

何らかの手段で提供してもらう、場合によっては無料で分けてもらえるのである。

感謝感謝のしきりである。

 

例えば私は法律の勉強に、弁護士の先生方のブログの法律的豆知識や法律的な解釈の説明を参考にさせてもらうことがある。それは弁護士の方が時間と労力をかけて作成して下さったもので法律理解の一助になればという好意が存在するのだと思う。

例えば私は教育YouTube、料理系YouTubeの動画をみることが大好きなのだけど、これだって広告収入が目的の一部であるかもしれない。でもそれは大抵は一部であって、根底には楽しんでほしいであるとか、人生に役立ててほしいであるとかの好意の分量や熱量の方が多いと思う。

 

無料のアプリ、無料の動画、無料の読み物…無料のものが溢れいるのだけれど、労力や好意がゼロのものなど存在し得ないわけで。

他者が払ってくれた労力や好意に関して感謝の気持ちをなくさないようにしていたいものだと思う。

 

さて指摘である。

単純なミスであれば幾らでも指摘してもらえる機会があるように思う。

ただし、価値観のあり方や常識は難しい。それは正解がないからでもあるし、指摘することへの感情労働への対価が割に合わないからでもあろうし、何より指摘を受ける側のパーソナリティや価値観を熟知している必要性があるからだ。

パーソナリティや価値観を熟知するためには、長い時間をかけた関係性の構築が基盤であり、一朝一夕で手に入れられるものではないだろう。

日本の義務教育の内容に関しては学力だけでなく、

 

「必要最低限のラインの社会性と集団協調能力とコミュニケーション能力、問題解決能力を身に着けてから社会に出てね」

 

という暗黙の了解というか、明文化されていない社会ルールが存在している。

当然周囲も社会人は、上記のラインは既に身に着けるものとして扱う。逆にそのように扱わないと失礼に当たるし、社会人ということはその部分を含めて自身で責任を負うということであるのだから。

そしてもし悪気なく非常識なことをしてしまったり、常識とズレたことをしてしまっても誰も仲の良い関係性でもない限り、教えてもらえたり指摘してもらえることは稀であるように思う。寧ろ陰で悪口を言われる可能性が高い。

その場合において、誰も教えてくれない、指摘してくれない、と社会や他者を非難したり、不満をぶつけても改善されることは難しいであろうと思う。

 

ソリューションとしては5つ。

一つ目は自分で疑問や不満に思ったことは、その都度調べる習慣を身に着けることである。誰かが疑問に思ったことや不満に思ったことは、他の誰かも疑問に感じたり不満に思ったことである。そして解決してきたことでもある。何らかの形でパソコン検索をすることが第一歩である。検索の仕方が分からなければ、検索の仕方から学んでいくことが、遠回り用に見えて近道なのだと思う。

2つ目は確認することである。又は質問力をあげることである。現実でもネットでも良いから不満という形ではなく質問という形で確認を取る。なんでも教えて君は相手に丸投げをすること、問題解決を押し付けることになるので、自分で調べきれないこと、調べてみたけれど別の角度から参考にしたいことを質問という形で確認をとる。その時はこれこれこういう風に調べたけれどわからなかった、こういう風に考えてみたけれどわからなかった、という具体的な一言があると相手も答えやすいかつ相手に丸投げしていないことも伝えられると思う。

参考書を例にすれば、どの参考書を使ったらいいですか?よりも、自分の偏差値は今この位で志望校はここですという具体例があった方が、より自分の欲しい情報に巡り合える。

3つめが普段から周りに周知しておくことである。自分がもし至らない点があれば遠慮なく申し付けて下さいというように。そうはいっても指摘してもらえることは少ないのだが。それでも一言あることによって、自分は自分の欠点を自覚しており、直そうとする意志があるのだ、ということの表明になる。

4つ目は意識して自分の属性外の情報に自分からアクセスしていくことである。同じ属性のコミュニティのみに留まることは、新たな知見を得ることが難しく価値観の硬直化を招くのだと思う。

5つめが素直であることである。教育YouTuberの方が口を揃えていうのは、成績がのびる生徒は素直であるということである。

素直であることで成長を早めることが出来るのは何も学力だけではないのだと思う。

*1:ある程度と但し書きをつけたのは、深度という意味において教わる側の知識、理解度にも依存されるからである。

*2:意思決定をサポートすることは出来るが、それを本人がサポートを望み、自ら働きかけていく必要があるように思う。アウトリーチは現時点では厳しい