雨と猫と珈琲と読書と

徒然なるままにパソコンに向かいて

議論は鋭い意見しか認めないとしたら、何かが違うと思う

表題の通りである。何故か議論は鋭い意見が言える頭の良い人しかしてはいけない、と思い込んでいる方を見かける。

議論に必要なのは頭の良さよりも、相手の意見を尊重しようという姿勢であると思うし、確かに意見そのものには視点の高低差はあるのだけれど、どんな意見であれ公共の福祉に反しなければ選挙の投票のように、一人一票が同じ重さを持つことと同義にどの意見も尊重されるべきものだと思う。

前提として、意見というものは万人が持っていて、万人が表明して良いものだ。

前に『ケーキの切れない非行少年たち』という本が話題になって、境界知能という概念にもフィーチャーされた。

そもそも常に高い視座を持っていられる人間など全体の2割にも満たないのではないだろうか。社会を構成している人数が多いのは平均的な視点を持った人たちだ。日本は民主主義を採用しているのだから、まずはそういった属性の方たちの意見が大事になっていくのだと思う。

そしてそれは、少数派の意見を排除することではない。

まずは大枠の形があって、ベースがある上で少数派の意見を大事にしていくというプロセスが定着に一番スムーズにいくと思うからだ。

少数派の意見が乱立していることは、戦国時代の群雄割拠状態にも似ていると思うのだ。

ありがたいことに、たまに黒蜜糖さんは視点が鋭いですね、視点が高いですねと言っていただくことがあるけれど、その言葉に居心地の悪さを覚えるのは、

鋭い意見≒少数派の意見≒メインストームではない意見

という認識があるためだ。だから逆説的に尊重されてはいけない、というような。

鋭い意見というのは2番手であるべきである、みたいな。

私は愚行権という権利のあり方を尊重しているのと、正しいことだけを選択し続けるのは、試行錯誤の機会を奪うことで巡りに巡って、将来のどこかで何か大切なものを置き去りにしてしまう気もする。

まとまりのない文章だけれど。

他人の痛みがわかることは本当に良いことなのだろうか

吉野弘さんという詩人の夕焼けという詩がある

いつものことだが 電車は満員だった
そして いつものことだが 若者と娘が腰をおろし としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが坐った 礼もいわずにとしよりは次の液で降りた。
娘は坐った。 別のとしよりが娘の前に 横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。 しかし 又立って 席を そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘は坐った。 二度あることは と言う通り 別のとしよりが娘の前に
押し出された。 可哀相に 娘はうつむいて そして今度は席を立たなかった。
次の駅も 次の駅も 下唇をキュッと噛んで 身体をこわばらせて--。
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて 娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持主は いつでもどこでも われにもあらず受難者となる。
何故って やさしい心の持主は 他人のつらさを自分のつらさのように感じるから。
やさしい心に責められながら 娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで つらい気持で
美しい夕焼けも見ないで。

 100人いれば100通りの鑑賞の仕方があると思う。

最近HSPという言葉をちらほら見かける。HSPというのは精神医学的には診断として存在していないらしいので、自分が知っている範囲では、認めない派と、病気・障害としては診断はしないけれど、そういった状態の心理状態はあるよね容認派に分かれるみたいである。

人の痛みがわかることは本当に良いことなんだろうか、の一つの解として、東大卒ニューヨーク弁護士の山口真由さんの経験談のオフィシャルブログの一記事、「やさしいひとになること」から引用してみたい。

www.mayuyamaguchi.com

 詳しいエピソードは、上記の記事を読んでいただくとして、山口真由さんはいう

そして、私はふと気づいたのである。

私は、いままでの人生で、こうやって人を押しのけたことが一度もなかっただろうかと。いや、たぶんたくさんあるよ。意識して意地悪したわけではなくても(意地悪したこともあったかもしれないけど…)、人を押しのける側は、常に大した意識はしていないのである。

人を傷つけたことに気づいてないし、押しのけたことに気づいていないし、ぶつかったことにすら無自覚なのである。

そして、私は思ったのである。

優しい人になろうと。

 自分の傷には異常なくらいの敏感な人も、他人の傷には鈍感なことが、えてして多い。

 他人の傷に対するセンシティビティというのが、「優しさ」なのだろうと、私は思うに至った。

 山口真由さんは人の痛みのわかる人間でありたいと仰っている。

もう一つの考え方として、rockin'on JAPAN  2008 vol.327号でバンプ・オブ・チキンのボーカリストで作詞作曲も手掛ける藤原基央さんは、カルマという曲の歌詞をこう語る

絶対もう、生きていると何度も人と肩をぶつけてしまう瞬間があるんですけど。で、痛いんですよ、それは。ほんとに痛いんですよ。こっちは痛くないけど、向こうがすごく痛かったり、その逆もあったりで。人畜無害になれたらどんだけラクかと思うんですけど。まあきっとそれはそれでつまらないなと思うんですけど(笑)そういう考え方があって、一個。そこから生まれた曲ですね。

藤原さんの言葉を私流の解釈をさせてもらうと、生きているとどうしても人を傷つけてしまったり、傷つけられてしまったりする。その事実をそのままの形で受け止めていく、ということだと思う。

 山口真由さんの人の痛みに気付けるようになりたいという考え方、藤原基央さんの自分も他者も人畜無害になりたくてもなれない事実を受け止めていくという考え方、どちらも素敵な考え方だと思う。

法律はとても素敵な学問である 伊藤真の憲法入門を読んで

 伊藤真 憲法入門より

法律を学習すると、社会のさまざまな問題、特に答えがわからない未知の問題に対する自分なりの答え創り上げることができるようになります。

法律の勉強は既存の答えを探すのではなく、自分で答えを創り出せるようになることを目標にするべきなのです。

その結論は自分の頭で考えて、自分の価値観に基づいて決断して、創り上げるものです。

そしてその結論を事実と論理と言葉で説得できるよう訓練していきます。

こうした力を付けるために法律を学ぶといっても過言ではありません。

 社会に出ると、正解のない問いに沢山出会って、考えて、解いていかなければならない。その解法の方法論の一つとして法律があるのだろうと思う。

鴻上尚史さんほがらか人生相談を読んで 多様性について

図書館で予約いっぱいだった、鴻上尚史さんのほがらか人生相談を借りることが出来たので、読んだ感想を。

 

スマホは奇跡を実現しました。膨大な情報量によって、人は自分の読みたい文章・記事だけを読んで一生を終えることが出来るようになりました。P181

 

こちらはまだ書籍に記載されていないアエラの記事から

世界は間違いなく多様化に向かっています。良い面で言えば、個々人の人権と社会的権利、自由と尊厳を尊重しようという流れです。LGBTQ+も同性婚夫婦別姓も多様性のひとつの現れです。

 けれど、多様化するということは、もめるということです。

多様性は時間がかかるし、もめるのです。けれど、それを引き受けるしかないのです。

 この複雑化した世界の中で、「簡単に答えを教えてくれるもの」「ものすごく分かりやすく世界を説明してくれるもの」「世界を単純に敵と味方に分けてくれるもの」は、信用しない方がいいだろうと僕は思っています。

  

他人同士のなのだから「価値観が違う」ということを前提に、関係を続ける意志があるのか、ないのかとうことです。

そのためにも話すことです。話すことでしか、関係を続けるのか終わらせるのかを決めることはできないのです。P198

 

現代は自分の好きなことだけを享受しやすい環境になりつつある。

鴻上さんが指摘した通り、その象徴がスマホなんだろうと思う。SNSもそうだろう。リアルでは難しいが、SNS上は少しでも価値観が違うと感じればブロックすればよい。

自分と合うものだけを事柄でも価値観でも人間関係でも受け入れていく。

それはある種の快適さを担保するのだろう。

話し合うということは、自分とは違う価値観を受容することは、ある種の苦痛と痛みと莫大なエネルギーを必要とすると思う。

それならば似たような価値観、話し合いが少なくて済むコミュニティのみで完結しようとするのは自明の心理なのかもしれない。それを良くも悪くも可視化したものが、階級制度なのだろう、と思う。

アメリカはご存じの通り「訴訟」社会だ。多様性は話し合うことを前提とするならば、話し合いの手段として訴訟が多くなることは奇異ではないだろう。アメリカほどの訴訟社会でないとしても、話し合うことが前提であれば「適切な自己主張」をするスキルは必須になるだろう。それは相対的に、自己主張が得意でない人がますますマイノリティ側におしやられることになるのではないかという気がしている。 

海外は、人種、言語、宗教と多様性が目に見える形で可視化されているので、多様性があることは「前提」としてあるけれども、日本の場合、

「あなたとわたしは違う人、違う価値観です」からスタートし辛い。頭でわかっていても「あなたとわたしは同じ日本人ですよね」から始まり、自分たちと異質性が あるとすれば、労力をかけて話し合おうとするよりも、鴻上さんが指摘された

”人は自分の読みたい文章・記事だけを読んで一生を終えることが出来るようになりました。”の文章・記事の部分が、コミュニティだったり、人間関係に置き換わって、話し合いを出来るだけ少なく済むように、話し合いの方向性にいかず、遮断する方向性に向かうのではないかと悲観している。

コミュニケーションを取れる辛さ

ぱっと見で分からないけれど心理的困難を抱えている方がいる。

大枠でいうところのコミュニケーションによる困難さなのだが、人に合わせて雑談したり仕事の指示は通るので、他者が気付き辛く、対人援助職の人もアセスメント力がある人でないと、中々看過出来ないのではという気がしている。

辛い、であるとか、苦しい、であるとか自分の感情を言語化出来ず、表出できないというのは歪で、適切なタイミングで怒れない、であるとか、傷ついていても黙っていることしかできず、時間がたってからしか泣けないのは切ないことであると思う。

一部の発達障碍児の特性として癇癪があるけれど、癇癪を起す理由はきっと様々なのだろうけれど、恐らくまだ子供で自身の感情を言語化できず、次善の策としての癇癪化があるのだろう、と想像する。

癇癪そのものは褒められた行為ではないけれど、その一方で癇癪を起こせる、ということは自分の感情を自覚でき、(適切な方法でないとしても)表出できるということである。

しかしその一方で癇癪を起せない子供は、大人は、その辛さを困難さをどうしたら良いのでしょうか?

コミュニケーションがとり辛い場合、ご本人はとてもとても辛いと思うのだけれど、周囲にコミュニケーションが困難なこと、それに付随して感情表現が不得意であることを周知できる側面があるかと思う。

最初の感情の自覚・表出のみ困難でコミュニケーションそのものははた目には友好な場合、例えば一見すると友人の仲良くしているように見え(但し一方的に相手に合わせているだけ)

仕事をこなすことができ(仕事そのものは職種にもよるけれど事務処理能力、情報処理能力があれば可能である。但し職場で理不尽な目にあってもその場では黙って受け入れるしかできない)

自分の考えを述べることができ(思考をロジカルに組み立てる能力と感情を自覚表出できる能力は別個であると考える、一見頭が良さそう風が増々、心理的困難があることを周囲に告げても軽く流されてしまう、福祉の職の人にでさえも)

上記の状態だと、大まかな意味でのコミュニケーションは出来ているように見なされる。寧ろ場合によっては社交的にすら見られてしまう。

周囲が困っていないと、仕事ができてしまうと、困難はないことにされてしまう。

友人や仕事や学校生活に一見問題ないように見えて、引きこもってしまったり不登校になってしまった方の中にも、同じような症状を抱えておられる方もおられるかもしれないし、今現在学校に通えていても、仕事をこなせていても同じような方がおられるかもしれない。

先天的な障害だったり、中途障害であったり例えば家庭環境などで後天的に似たような症状を抱えておられる方もいるかもしれない。

四肢麻痺の障害のある知り合いが言っていたことがある。

「前に、お前は障害が目に見えるからいいよな、みたいなことを言われたことがあるけれど、なまじ誰の目にも分かりやすい身体障害の部分があるから、その部分に隠れてそれ以外の障害の部分が認知・理解してもらいづらい」と。

表出されている障害は辛い、表出されない障害も辛い。障害と診断されなくても辛い。

生き辛さは、表出されているかいないか、診断があるかないかだけで判断出来るものではないと思う。そのことを忘れずにいたいと思う。

言葉の選択について思うこと

2018年に生活保護法が改正されたのだが、当事者の方ご家族を除いて、福祉・医療系、法律系の人以外には馴染みがないだろうと思う。

今回のテーマは生活保護法でなく、言葉の選択について、である。

生活保護法の改正について人権の面から、日本弁護士連合会から生活保護法改正要綱案が厚生労働省に提出された。そのPDFが以下である

https://www.nichibenren.or.jp/library/ja/opinion/report/data/2019/opinion_190214_2.pdf

5つの提言があるが、そのうちの1つとして権利性の明確化をあげている。そして明確化するために、名称を変えよ、ということが趣旨の一部である。 

1 権利性の明確化

1-1 法律の名称変更  現行 生活保護法  → 生活保障法(健康で文化的な最低限度の生活の保障に関する法律)

1-2 用語の置き換え 現 行  

被保護者 →利用者   要保護者 →要保障者

保護→ 生活保障給付  保護金品→ 給付金品

扶助→ 給付      生業扶助 →自立支援給付
 
【趣旨・解説】  生活保護制度は,憲法25条の生存権保障を具体化したものであるにもかかわら ず, 「保護」という用語が,利用者にはスティグマ(世間から押し付けられた恥や負 い目の烙印)を与え,制度を運用する公務員には「保護を与えてやっている」との誤った意識を生んでいる。 そこで,法改正によって,法の名称を「生活保障法」と改めるとともに1「被保 護者」を「利用者」と言い替えるなど用語を改め,生活保護は恩恵として与えられ るものではなく,健康で文化的な低限度の生活を保障する憲法25条を具体化した権利であることを明確にする 

 

障害者を障碍者としたり、障がい者と表記するべきだという議論がある。

この議論の難しいポイントは、

 

障碍者として扱って欲しい障害者の方と障害者として扱って欲しくない障碍者の方の二重構造があるということ

・現実問題として障害者という言葉にはスティグマがある

 

この2点であるかと思う。言葉を変えても本質は変わらないから意味がない、という論調があるが、人の意識は言葉によって規定される一面がある、という前提がある以上、その発言者自身は全く変わらないとしても、世間や他人が変わらないかは別の論点である。当事者や当事者向けにイベントをされている方が、同じイベントであっても障害者と表記するか障がい者と表記するかによって集客人数がだいぶ違うという話も聞く。

昔見たテレビ番組で聾唖学校を取材したものをみた。その学校は日本で唯一、手話を第一言語として使用しているそうだ。テレビによると、第一言語がが手話でなく口語法のところがほとんどだと説明されていた。

その生徒さんの一人がインタビューを受けていた。リズミカルな手話と険しい表情で「僕は耳が聞こえないだけだ。それなのに何故障害者扱いされなければならないかわからない」

と訴えていた。彼にとっては恐らく耳が聞こえないというのは、音痴であるとか、料理が不得意であるとか、絵が下手であるとかと並列なのだ、と思う。

 

その一方で、精神障害であるとか難病の方ははた目にはわからないことが多く、それ故に、甘えではあるとか、努力が足りないのだ、という世間の無理解に苦しんでいる方も多い。ある精神科医の方が障害手帳はパスポートだ、と表現されていたけれど、素敵な表現だと思う。

ただ現状として、障害というカテゴリにくくられないと、世間の理解を得られなかったり、行政の福祉にアクセス出来なかったりという「保護」を受けづらいという現状がある。理想論をいえば個別性、多様性を重視していくことなのだけれど、使える予算、マンパワーに限りがある以上、閾値、カテゴリの類型化をせざるを得ない。

本来なら、障碍者という言葉自体が古くなってきて、現代にそぐわなくなってきたのだと思う。

次善の策としてふり幅を容認していくことだと私は思うのだ。

Aさんは障害者という言葉を使いたい、Bさんは障碍者という言葉を使いたい、Cさんはchallengeという言葉を使いたい。anythinng OKとすることだと思う。

マクロとミクロを切り離す視点が必要なのだ、と思う。

障害とすると見下されているようでいやだ、だから障碍者若しくは障がい者に仕して欲しい、という意見も、

障害者でないと程度が軽く扱われる、理解してもらえなくなる、という意見はどちらも正しくてどちらも間違っているのかもしれない。      

元東京地検特捜部副部長など、検察の内側にいた若狭勝氏のアエラ記事のまとめ

まずは全文

www.msn.com

 

若狭氏と堀江貴文氏の共通の主張

内閣が人事権を持つこと自体は検察は行政の一部なので問題はない。

そもそも独占起訴権、独自捜査権のある巨大な権力である検察の人事を検察内だけで完結することは危険

 

若狭氏の提案

問題は、今回の改正案にあるような定年延長のやり方です。これでは時の政権の意向で人事を左右することができてしまう。法務大臣が自由裁量でこうした人事権を持ったら、別の力が働きます。何らかの制限をつけないと、中立性が保てません。

 国民が直接人事権をもつことについて

ネットには「主権者である国民が(直接的に)人事権を持つべきだ」という意見が出ていますが、むしろこれは危ない。現在のアメリカのように世論やその時の機運の影響を反映する形になるので、独立した捜査機関であるはずの検察に、政治的な色が付きます。捜査機関としての独立性が損なわれる恐れがあります。

 

法案が通ればどうなるかについて

仮に今回の法案が通れば、検事長検事総長は、相当に内閣の顔色をうかがうようになるのではと思います。かつての田中角栄元首相の逮捕劇のようなことは、まず起こり得なくなります。

定年延長について

 定年を延長するのであれば、内閣の意向が介入しないよう、一律延長にしてしまえばいい。検事総長は65歳から67歳に。検事長は63歳から65歳に。一律2年延長で、あとはいじらないのがベストだと思います。