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鴻上尚史さんほがらか人生相談を読んで 多様性について

図書館で予約いっぱいだった、鴻上尚史さんのほがらか人生相談を借りることが出来たので、読んだ感想を。

 

スマホは奇跡を実現しました。膨大な情報量によって、人は自分の読みたい文章・記事だけを読んで一生を終えることが出来るようになりました。P181

 

こちらはまだ書籍に記載されていないアエラの記事から

世界は間違いなく多様化に向かっています。良い面で言えば、個々人の人権と社会的権利、自由と尊厳を尊重しようという流れです。LGBTQ+も同性婚夫婦別姓も多様性のひとつの現れです。

 けれど、多様化するということは、もめるということです。

多様性は時間がかかるし、もめるのです。けれど、それを引き受けるしかないのです。

 この複雑化した世界の中で、「簡単に答えを教えてくれるもの」「ものすごく分かりやすく世界を説明してくれるもの」「世界を単純に敵と味方に分けてくれるもの」は、信用しない方がいいだろうと僕は思っています。

  

他人同士のなのだから「価値観が違う」ということを前提に、関係を続ける意志があるのか、ないのかとうことです。

そのためにも話すことです。話すことでしか、関係を続けるのか終わらせるのかを決めることはできないのです。P198

 

現代は自分の好きなことだけを享受しやすい環境になりつつある。

鴻上さんが指摘した通り、その象徴がスマホなんだろうと思う。SNSもそうだろう。リアルでは難しいが、SNS上は少しでも価値観が違うと感じればブロックすればよい。

自分と合うものだけを事柄でも価値観でも人間関係でも受け入れていく。

それはある種の快適さを担保するのだろう。

話し合うということは、自分とは違う価値観を受容することは、ある種の苦痛と痛みと莫大なエネルギーを必要とすると思う。

それならば似たような価値観、話し合いが少なくて済むコミュニティのみで完結しようとするのは自明の心理なのかもしれない。それを良くも悪くも可視化したものが、階級制度なのだろう、と思う。

アメリカはご存じの通り「訴訟」社会だ。多様性は話し合うことを前提とするならば、話し合いの手段として訴訟が多くなることは奇異ではないだろう。アメリカほどの訴訟社会でないとしても、話し合うことが前提であれば「適切な自己主張」をするスキルは必須になるだろう。それは相対的に、自己主張が得意でない人がますますマイノリティ側におしやられることになるのではないかという気がしている。 

海外は、人種、言語、宗教と多様性が目に見える形で可視化されているので、多様性があることは「前提」としてあるけれども、日本の場合、

「あなたとわたしは違う人、違う価値観です」からスタートし辛い。頭でわかっていても「あなたとわたしは同じ日本人ですよね」から始まり、自分たちと異質性が あるとすれば、労力をかけて話し合おうとするよりも、鴻上さんが指摘された

”人は自分の読みたい文章・記事だけを読んで一生を終えることが出来るようになりました。”の文章・記事の部分が、コミュニティだったり、人間関係に置き換わって、話し合いを出来るだけ少なく済むように、話し合いの方向性にいかず、遮断する方向性に向かうのではないかと悲観している。