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徒然なるままにパソコンに向かいて

成功体験よりも受容経験の方がより重要であろうということ

何かに挑戦したり、行動を起こすためにはエネルギーが必要であり、エネルギーの元は受容経験であろうということについてつらつらと書き連ねてみる。

 

私自身は愚痴や不平不満を言うということがほとんどない。

理由は単純明快で共感を求めるタイプではないこと、人は人自分は自分という主義であること、何より解決しないことは文字通り時間の無駄、という価値観の所有者だからである。ただこの考え方、価値観は強者の理論であることも自己覚知している。

愚痴や不平不満が多い人、というのは言い換えれば解決するためのアクションを起こさない人、押しなべて行動を起こせない人、挑戦することに二の足を踏んでいる人なのだろうと思う。

すべての人にあてはまるわけではないけれど、ではなぜ行動を起こせないかというとそれは冒頭に記したようにエネルギーがないからで、では何故エネルギーがないのかというと、受容経験がないからではいかと感じている。

 

リンク先の記事の方は、開成中学高校→東大法学部→旧司法試験一発合格→弁護士と眼が眩むような鉄壁な経歴の持ち主である。

toyokeizai.net

 

記事から引用させていただくと

”日本の受験戦争に勝ち抜いた人が集う開成や東大において、ほとんどの同級生に共通しているのは「自己肯定感」です。平たく言えば、みんな大なり小なり「自分大好き」「自分すげー」と思っています。

より年齢の低い開成では、特にその傾向が強く、中学から入学する人の方が高校から入学する人よりも自己肯定感が強いです。誤解を恐れずに言うならば、開成なんてナルシスト集団です。開成だけが例外ではなく、これは世の進学校全般にあてはまることでしょう。”

ということだそうである。よく福祉の現場でスモールステップの成功体験の積み重ねが大事といわれるのは自己肯定感を育むためである。ただ成功体験以上に大事な経験が受容経験だと思う。

筆者の鬼頭弁護士が難関中学の中学受験をする時に母親にこういわれたそうである。

 

”「あなたなら、ちょっと失敗しても真ん中くらいで受かるわよ」

人生初の受験、当然私も「落ちたらどうしよう」と不安になりました。それを必死に隠しながら、冗談めかして「中学全部落ちたらどうしよう」と言ったのに対し、母が言った言葉です。”

詳しくは記事を読んでもらうとして、とても示唆的な内容であると思う。

 

高学歴の方で自己肯定感が低い方がいる。少なくとも受験戦争というシーンにおいては成功者である。それを思えば成功体験が必ずしも直線的に自己肯定感に繋がるというわけではないのだろう。

逆に貧しかろうが、学歴に恵まれなかろうが、健やかな自己肯定感の所有者がいる。

大抵親御さんに恵まれたか、友人に恵まれたか、恋愛経験に恵まれたかの何れかである。人的資本に恵まれた人、と言えるかもしれない。

 

不平不満が多い人は人的資本に苦戦している方が多いのだと思う。肯定感が高い方は批判はすれども不平不満は少ない印象を受ける。批判と不平不満は似て非なるものだ。

 不平不満が多い人が行動を起こせるようになるためには、恐らく他者の受容経験が必要になるのだけれど、よっぽど容姿が恵まれているだとか、被害妄想傾向がなく性格が素直で謙虚であるとかでない限り難しい。人は基本的にネガティヴなもの、ネガティヴな人を忌避する傾向があるからである。

それならばポジティヴになれれば良いのだけれど、ポジティヴになるためには他者受容が必要であるというパラドックスが発生する。

卵が先か鶏が先か論になってしまう。

 更にパラドックス的なのは、他者受容を必要としている人ほど、自身は他者受容が出来ていないということが多いということである。

 自分は他者や社会を受け入れないけれど、自分のことは理解して受け入れてほしい

 この主張は世間から周囲から受け入れられ辛いであろうと思う。

ネットで前に素敵な考え方の意見を見た。

 

もし自分が理解出来ないことや共感出来ないことがあっても、それは即座に間違っている、おかしいと否定することではなく、きっと自分には理解出来ない事情があるのだと思う

まずは自分から他者受容をしていく、そこから始めるしかないのだと思う。